アンダマン諸島から運用が続いている。アンダマンといえば、200412月に行なわれたDXペディションの途中に大地震と大津波が発生し、ペディションが急遽非常通信に切り替えられ、アマチュア無線が大いに社会貢献を行なった。その功績が認められ、アンダマン諸島、ラクシャドウィープ諸島からのアマチュア無線の運用を、当局が許可するようになったのではないかと思う。
CQ誌2005年3月号に、その時の様子が、DXペディションのリーダー、VU2RBI Bharathiさんの文章によって紹介されている。以下、その記事の抜粋。
 
1226日の未明、ホテルのほかの宿泊客はまだぐっすりと眠っていたが、私はいつものようにDXを続けていた。ちょうどインドネシアの局と交信中だった。午前629分、突然激しい揺れを感じた。すぐに地震だとわかり、マイクに向かって「地震だ!」と叫んで部屋を飛び出し、非常事態を他の宿泊客にも知らせた。みんな部屋を飛び出し、ホテルの建物の外にある芝生に集まった。
 
すぐに他の運用場所にいたメンバーも私のいるホテルに集まり、メンバー全員の無事が確認できた。1時間半後には、シャックに戻り、屋上のアンテナを点検した。地震によって倒れているアンテナは修復した。ホテルは停電していたが、ホテルの発電機が始動するとすぐに運用を開始した。タイのHS0ZAA、インド本土のVU2UUの2局と交信し、タイでもインド本土でも地震があったことが確認できた。地震による被害の大きさが予測できたため、DXペディションを中止して、インド本土との非常通信のための運用に切り替えることを決断した。そしてアンテナをインド本土に向けた。
 
電話回線は不通となったが、数時間後には地元の人を通して、ポートブレアの被害の規模を知った。地震と津波のために、インドのほかの地域で多くの死傷者が出たというニュースは世界中に伝えられたが、アンダマン・ニコバル諸島の状況は知られていなかった。私の信号を受信できる人にはだれにでも、アンダマン・ニコバル諸島の状況についての情報を送り続けた。同時に、ペディションチームのメンバーを現地政府の長官の事務所に派遣し、我々は非常通信を引き続き行うつもりであることを伝えた。
 
1227日には、現地政府次官の要請を受けて、次官事務所の管制室に無線局を設置し、私とVU3RSBが運用に当たった。また、メンバーの2名VU2MYHVU2DVOは、1228日の午前に軍の航空機でカール・ニコバル島(Car Nicobar Island)へ向かい、ポートブレアとの通信回線を確保した。我々は、本土から被害地域へのおびただしい数のメッセージを取り扱った。通信施設が被害を受けたため、アンダマン諸島の友人や家族を心配する何千人ものインドの人たちや外国の人たちにとって、我々の無線が唯一の通信回線であった。
 
また、管制室にある我々の無線局が、ポートブレアとニコバル島の間の連絡の中心となった。ニコバル島の生存者は、無線を経由してポートブレアにいる親類と連絡を取ることができた。島との連絡の電波がスキップしたときは、必ず本土のハムが連絡を中継してくれた。
 
1228日に電話回線が復旧したときには、カール・ニコバル島の生存者について無線で受け取った情報は、すでに本土で心配している親類に伝えられていた。また、数名のアメリカ人を含む15名の外国人旅行者の家族へ連絡を取る手助けも行った。一般の人たちは、我々のサービスが活用できて大喜びだった。友人や親類の無事を伝える情報を受け取ることができて、我々の想像以上に満足してもらえた。
 
私は、デリーに戻る200511日の午前中まで非常通信を続けた。他のチームメンバーは、ポートブレア、ニコバル島、ハドベイ島に残ってそれぞれ非常通信を行った。12日には、NIARから数名が合流し、通信手段が確保できないほかの島々に向かった。
 
我々はDXペディションを行うことを目的に、アンダマン・ニコバル諸島へ出かけた。しかし、状況が変わり非常通信を行うことになった。AP通信、ワシントン・ポストといった外国のメディアが、緊急時において我々が行ったアマチュア無線を通じた社会奉仕の意義を認め、アマチュア無線通信について多くの人に広く知らせてくれたことに感謝している。人々をひとつに結びつけるという、アマチュア無線通信の持つ潜在的な力が再確認されることとなった。